江戸時代⇔明治・大正・昭和(戦前)⇔昭和(戦後)⇔富貴蘭を楽しむ | |
富貴蘭の過去を印刷物から推測し探って見ようと、手持ちの蒐集資料を参考に富貴蘭の歴史と魅惑に迫って見ました。 (下記 イラスト 江戸・戦前・戦後 各頁の3カットは、常盤園より頂いた入門書「風貴蘭」の記述内容を当時(S63)文面から連想して創作したものです。) |
「諸鉢物集会之巻」 ◎安政2年(1855)に発行された、富貴蘭関連の印刷物としては最も古い資料だ。この「刷り物」は、植木屋兵右衛門と弥兵衛の連名で発行され、愛好家に配布されたものと思われる。
◎安政当時の世相は将軍家定でぺりー、プチャーチン等外国船が相次いで来航した頃で、刷り物に出ている人々の名は殆どが、亀吉・菊松・何々屋など百名余りが町人あるいは商人で、氏を名乗る高貴な階層と思われる氏は十数名である。 ◎この刷り物の発行された安政の頃から、高貴な人々が富貴蘭趣味への参加が始まったのではと私は推測するのだが・・・。 ◎諸先輩が将軍家斉公を抽象的に富貴蘭趣味の元祖に据えて居る節が、複数の本の文面に窺えるが、家斉公が将軍に就任したのは、天明の大飢饉 数年後の1787年14歳の時だ。1837年に退任した時は64歳であった。家斉公50年の在位で政治的に安定し、特に文化面は浮世絵等が爛熟期を迎えた事もあり、想像上の[歴史]として家斉公=右のイラストの様な富貴蘭伝説の光景が出来上がったのかも知れない。 ◎ちなみに安政当時富貴蘭の呼称は風蘭・仙草・つり蘭・富有蘭などと呼ばれていたらしい。富貴蘭と呼称され始めたのは明治初期からと古い資料からも証明されている。 ◎万延元年(1860)に「富貴殿」(当時の呼び名は皇覆輪)が、大分県日田の在で発見されている。2010年で150年になる。 |
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「富貴蘭」と呼称された時期は明治時代になってからと思われるが、園芸植物として栽培された記録としては、1712年(正徳 2年) 寺島 良安 編纂の「※和漢三才図会」風蘭の項では「山地老木の枝葉上に着生するものなれども時に觀賞用として培養せらるゝもの少なからず。葉は狭長にして厚く長さ四五寸許に達し互に相抱擁して數對に至る。夏日其の葉間に花莖を抽くこと三四寸に達し更に分枝して白色花を開く。本花の瓣は狭長にして三瓣は上に並び兩翼は左右に下垂し密槽瓣は三尖を有し密槽長く下垂す。」 とあり、名称は風蘭の他"仙草"或いは"挂蘭"とも称し、既に江戸時代中期には栽培されていた事が説明されている。 又、132年後1835年(天保 6年)頃に長生舎主人 著「金生樹譜 」の記述でも"和漢三才図会"を超える記事は見当たらなかった。 従って、上右図の様な光景を「風貴蘭」(昭和45年 風貴蘭保存研究会 版)の記事から連想して創作したイラストだが、調査が進むに連れ良く出来た"御伽噺"と云う事なのかも知れない。 (「※和漢三才図会」について・1712年 寺島 良安(医者) 編纂の木版刷り全105巻81冊を、明治初期(17年頃?) 外国より印刷技術の導入により、縮刷版として本文1463頁に及ぶ膨大な頁を、現在で云う一冊の"百科事典"として出版された古書を入手参考としました。 関連内容の一部として、大見出しを 「"天・人・地"」 の三部門に分け「"風蘭"」は地の部「"芳草類"」に該当し、同じ古典園芸植物で蘭科の一翼を担っている長生蘭が「石斛(セッコク)」として分類も"石草類"となっている。) |
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